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サンブロップのやつ

あれするやつです。ゲームとか、システムとか

【雑記】霊を信じるか

雑記

個人的なまとめ。ただ自分が納得するために書くだけのオナニーだ。ソースもほとんどネットで見た文章であり、正式なソースではない。

8月の終わりは婆さんの命日だ。親戚が集まり線香を上げる。今年で3回忌。婆さんはアルツハイマーで逝った。最後は自分の名前もわからず、息子(サンブロップの父親)と娘(サンブロップの叔母)の事すらわからず逝った。

そんなことはどうでもいいんだが、寺に行くとずっと思うことがある。

「幽霊は本当に存在するのだろうか」

自分は幽霊を信じていない。証拠がなさすぎるし、見えると言う人間が証明をしないからだ。信じてはいないが、いてほしいという気持ちはある。これはネス湖ネッシーがいないとはわかっているものの、ネッシーがいたらロマンがあるだろう、という感覚に近い。

幽霊といえば墓だ。死者の集まる場所なので、幽霊も何もないところよりいる可能性が高い。それ故、寺に来ると幽霊のことばかり考えるのは昔も今も変わっていない。

幽霊とは?

まず、幽霊とは何なのかを考える。

  • 思念
  • 幻覚・錯覚

大きく分けてこの3つだろう。

物質の理を超えた存在。生き物全てに宿り、肉体とは別に存在する個。それが魂であり、霊魂と呼ばれるものである。

魂は火の玉のように書かれる場合が多い。魂は輪廻を繰り返し、日本の仏教ではその輪廻を脱する(解脱)事を目的としている。善き行いをしたものは解脱し浄土へ生まれ変わり、解脱できなかったものはまた六道へと生まれ変わる。仏教的な事で考えると魂は輪廻しているため幽霊とは魂(霊魂)とは違うようだ。

神道であれば、ざっくばらんにいうと魂とは森羅万象に宿るマナである。マナとは神秘の源である。神もまたマナであり、優れた人物の霊魂は人格神、あるいはそれに相当する存在とされる。明治時代以降、戦死者を「英霊」と呼ぶ。どうやら、霊=魂の考えはこちらの考え方によるものだと考えられる。

思念

思念とは常に考えることである。幽霊であれば、「残留思念」がそれに当たるだろう。人間が強く何かをおもった時、その場所に残留するとされる思念。

地縛霊と呼ばれる類はこちらの思念が当てはまるように思える。例えばありがちな地縛霊として交通事故にあった女なんてのは都市伝説にも多い。交通事故にあった時に強く「生きたい」と願ったことによりその残留思念が残り地縛霊と成る。その思念を人間が強く感じた時、また新たな残留思念が生まれ、それらが渦巻き心霊スポットが出来上がるという。

幻覚・錯覚

上2つとは全く逆の方向で「霊とは人間の脳が見せた虚である」という考え方だ。

幻覚とは幻聴、幻視、幻嗅、幻味、幻肢のことである。精神医学の分野で、自分はアホなのでわからないのだが、外的要因がないのに五感が感じ取ってしまう現象ということだ。精神的に病んでしまった人は常に誰かが自分を見ているような気がするという。お酒を飲んだ時に時々呼ばれた気がする時がある。それは幻聴だろう。

錯覚とは実際に五感で感じたものを誤って感じてしまう事だ。有名な話に「夜に見た柳が足のない女に見えた」と言うものがある。また、目隠しをして温かいものに触れさせ続けた時に冷水をかけると熱いとおもってしまう。静止した絵が動いているように見える、壁のシミが人の顔に見える。これらは錯覚といえる。

現実的な話である。ロマンがない。また、霊感がある人はこれらを否定する傾向にある。

「気」という力

自分は、霊を信じないと言ったが、「気」という力は信じている。これは実際に体験したからだ。

中国では、雨雲を気で消滅させるという行いがされているようだ。実際に、気を教えてくれた先生と雲に穴を開けるという実験を行った。手順としては、穴を開けたい方向に右手を差し出し右回りに念じながらぐるぐると手を回すという方法だ。これは成功した。

皆さんが体験しているであろうことでいうならば、視線を感じた時にふとそちらの方を見ると見つめられていたという経験がある人は多いだろう。気とはそれらである。

また、立った人間に気を送ったあと倒そうとしても倒れない。気を奪った後に倒そうとすると簡単に倒れるというのも気をつかってできるという。

気とは、気功とか、念力とか、そう呼ばれている物に近い。

 

と、まぁ、あたかも「気」によってすごいことが起こせるような書き方をしているが、種もちゃんとある。

例えば、雲を消す実験だが、雲というものは流れていると考える人が多い。実際には雲は消滅し発生することを繰り返しているのだ。視線なんかも、そういう経験はあるが、視線を感じてふと見たけどなにもなかった経験も同じぐらいあるはずだ。言ってしまえば、偶然なのだ。

最後のは、プラセボ効果と言われている。ただ、気を信じてない人に対しても効果があるらしい。個人的な考えだが、こういった実験は必ず気を奪って倒す方から行う。つまり、後から行う気を送って倒れないようにする時、既に「どんなぐらいの力で来るか?いつくるのか?」を体験している。故に、対応ができて倒れないだろうと考えている。

そこまで、ロマンなしに考えているのになぜ「気」を信じるのか?それは「運」の存在である。

運がいい、そういう星の下、いろいろ言われるが、運は確率の話だ。運の流れというのは確率の収束なのだ。みな頭の中でそう思っているはず。しかし、自分の運をどうしても信じる。

気も同じなのだ。「偶然」を身につける力なのだ。雲を消す、視線を読み取る、それを気として捉える。今までの偶然を「気」という経験に変えることで、意識ができるようになる。

つまりのところ「気」とは個人の意識の持ち方なのだ。

そこから導き出されるのが「霊とは気ではないのか?」というのが私の最終結論だ。

霊=気という結論のまとめ

キツネ氏に以前、こういう質問をされた。

「幽霊を信じるか?」

キツネ氏は霊感体質である。金縛りによくあい、霊に触られた感触が未だに残っている。と言うのである。

自分は「幽霊というのは個人差であり、食べ物の好き嫌いのようなものである」と言った。何を言ってるかわからないと思うが、上記の気を考えた時の結論である。

例えば、好き嫌いが別れる食べ物に「さんまの腸」がある。私は大好きだ。子供の頃から大好きだ。しかし、兄貴は大嫌いである。兄貴のさんまの腸は自分が処理していたぐらいだ。

兄貴が言うには「苦いだけ」という。でも、自分はその苦さの中に身よりも濃厚な「旨味」を感じているのである。その旨味を兄貴が大人になっても見出だせていないようである。

また、味覚は時間が経つにつれ変化するものである。子どもの時は無理だったさんまの腸が、今では大好きになったという話もよく聞く。

その旨味を見出す力が「気」や「霊感」と同じなのだ。微量の違いを感じる、そういった繊細な意識の仕方が「気」や「霊感」だと結論づけている。

先に、霊は「魂」「思念」「幻覚・錯覚」であるという説明をした。個人的には全部が霊だと思っている。

よく、「霊を見ても目を合わせるな」「そこにいないものとして扱え」という話を聞かないだろうか?つまりのところ「意識をしない」ということなのだ。そこで、意識をする方向に持って行くたびに「霊感」は鍛えられる。

都市伝説の話をしよう。口裂け女。今ではもっぱら噂にならず目撃証言もない。しかし昔は目撃証言があった。それは、「口裂け女がいるから」と意識しているからこそ出てきたものである。

つまり、霊や神は人間に認識されることで強くなるとはそういうことなのであろう。

あそこで交通事故があったからそこに霊がいるように意識してしまう。1回聞いてしまえばいくら霊を信じない人間でも完全に忘れることなど不可能だ。

なので、霊とは絶対的に存在するものではないが、確かに個人の中に存在する。自分の中にはどうやら存在しないようだ。

 

願うならば、冒頭で言った婆さんの幽霊に会いたい。会って、感謝を伝えたい。婆さんは、どの状態ででてくるのかがまずわからない。自分が中学生ぐらいの時の元気な婆さんなのか、逝く前のアルツハイマー状態の婆さんなのか。だから、婆さんは自分の前に化けて出てきてくれないのだろう。

霊を否定することはしない。しかし、自分の中には霊は存在せず、気は存在しているのだ。そして、それを他人が肯定や否定することになんの意味もないのだ。

でも、やっぱ、妖怪とかいたほうが絶対楽しいと思い、信じ続けているのだ。